仕事に悩んだら、フリハク。

自由な働き方・生き方を考えるブログ

小説を手に取る理由は自由を求めているからか

 妻がバーガーキングをうれしそうに持ち帰る。幸せな自宅より。

 

 小説を手に取る。長い間、純粋な小説を読んでいなかった。

 原因は何かに駆り立てられていたからだと思う。無意識に「役に立たないもの」を避けていたのかもしれない。小説を読む時間を、もっと有用な、役に立つ情報の習得に充てようとしていたのだと思う。

 全く愚かである。

 何かが変わったわけではない。変わったのは心境かもしれない。

 今日、久しぶりに手にとったのは、町田康の「バイ貝」という小説だ。町田康は、僕が小説を買う数少ない生きている小説家だ。(中島らもは逝ってしまった。)

 今日は「バイ貝」のはじまりの一文を引用したいと思う。

ドストエフスキーは、貨幣は鋳造された自由である、と書いた。心の底、腹の底からその通りであると思う。カネ、銭を遣うとき我々はなにものからか解放されている。

 全くその通りである。

 これが小説の始まりなのだから、一体どんな話なのだろうと思う。(ちなみに僕はバイ貝は未読だ)

 ただ、この一文を読んで、自由について考えたいと思った。たぶん僕は小説に縛られない何かを求めているのだと思う。理不尽や不条理をありのまま受け入れられる小説という世界は、現実にはない稀有な空間であり、あらゆる妄想が許される空間なのだ。小説は役に立つだろうか?

 僕の「役に立つ病」は治りつつある。インターネットは今日も役に立つ情報であふれている。だから、僕だけはせめて役に立たない文章を書こう。

 明日には忘れられてしまう、「役に立つ情報」の墓標として。

 

バイ貝

バイ貝