「PUNK」はどこへ消えた?さよならパンクミュージック
今日は雑記なので気楽に書く。
昨日、音楽をやってる友人と飲んで、そこでこんな話題が出た。
「日本のパンクミュージックはどこへ消えた?」
日本のパンクミュージックは、青春パンクという今思えばメチャクチャにダサいムーヴメントを最後に下火になってしまったようだ。
ウィキペディアの日本のパンクロックという項目も、10年以上、時が止まったままでいる。
別にいいじゃん?と思う人がほとんどかもしれないけれど、僕はパンクを大切なものだと思っている。
なぜか?「パンクは世界を変える」からだ。
最近、活動休止を発表してしまったART-SCHOOLの木下理樹は、2005年のブログでこんなことを書いていた。(奇跡的に探し出すことが出来た)
俺は、自分をパンクスだと思っていないけど、
世界を変えれるのは、パンクミュージックだけだと思っている。
オフスプリングとか、パンクだと思っていないけどね。。
パンクミュージックが他の音楽と違う点は、外向きの音楽だということだ。
つまり、世の中や社会、政治に対して不平不満、問題提起、破壊的衝動をぶつけるのがパンクミュージックなのだと僕は思う。(それに対して内向きの音楽がオルタナだ)
だから、今の世にパンクミュージックが流れていないことは、僕にとって不思議だし考えるに値することだと思った。そして、大きな原因はこういうことなんじゃないかと思う。
多様性を認めた時、パンクは死んだ
今の世の中は以前と比べるとずっと多様性に寛容になったと思う。
◯◯オタクみたいな言葉は市民権を得て久しい。ちょっと変わった趣味趣向を持っていることは、むしろ持っていないことよりも評価される。奇人変人であることの方が、普通でいることより面白いと思われている。
それぞれに主義があり、それぞれに主張があることを皆が理解しているし、わざわざ否定しようとはしない。その時、パンクはマイノリティたちと共有できるものを失ったように思う。ブルーハーツの曲は良いものが多いけれど、ブルーハーツの曲のメッセージを僕らはもう共有できない時代を生きている。
東浩紀は動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)の中で、大きな物語(皆が共有できるもの)を喪失した後には、データベース消費がそれに置き換わると述べていた。それは音楽において顕著にあらわれていると思う。例えば、ジャニーズミュージック、AKBミュージック、エグザイルミュージック。一曲一曲は確かに違うけれど、それぞれがある要素の組み合わせで成立していることに、僕らは気づいている。
話が少し脱線してしまったけれど、社会が多様な価値観に寛容になった時に、パンクは魅力を失った。パンクが主張すべきもの、戦うべき相手を失ってしまったのだ。
東日本大震災という大災害の後でさえ、僕らはそれを記憶し、共有する音楽を一曲も持っていない。(実は「花は咲く」という曲がある。歌えますか?)
それは悲しいことのように感じるけれど、そういう時代なのだろう。
今後、僕達は大ヒットアニメや映画の主題歌でしか音楽を共有できないのかもしれない。
パンクが生き延びる道
友人と話しているうちに、パンクが生き延びる道が無くは無いことに気づく。
それは「道徳」だ。マイケル・サンデルが言っている通り、僕らの社会は今、正義と不正義のジャッジが難しい問題に次々と直面している。
臓器売買、代理出産、尊厳死、介護殺人。僕らの社会は微妙な問題だらけだ。
パンクはそこで自分の正義を声高に主張できるはずだ。でも、そもそも不道徳なパンクに道徳を語られるのはどうなんだ?という疑問が生じる。
だからこれからのパンクスは真面目に生きなければならない。トゲのついた服も着ないし、安全ピンでピアスもしない。弱きを助け強きをくじくパンクス。
そんな生き方が、もはやパンクと呼べるのか分からないが仕方ない。パンクはやはり死んでいて、生き返るのだから、それくらいの変化が必要かもしれない。
むしろ、お願いだパンクス。
世界を変えるような一曲を、僕はみんなで肩を組んで熱唱できる日を待っているんだ。
だから一日も早く、生き返ってくれないか。
ずっと待ってるんだ。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/11/20
- メディア: 新書
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