仕事に悩んだら、フリハク。

自由な働き方・生き方を考えるブログ

不完全でいい。これは慰めじゃなくて。

 

雨の東京、自宅より

 

 感動について考えるとき、多くの人はこんなことを言う。「ただ望みを叶えるのは、満足でしかない。感動とは、思ってもみなかったことに対する感情だ。」確かに、牛丼屋で牛丼を頼んで、牛丼が出てきても満足はしても感動はしない。でも、その牛丼が今まで食べたことのないくらい美味しい牛丼だったら、感動するだろう。これが感動に対する一般的な解釈だと思う。満足のずっと高いレベルが感動なのだと。

 でも、本当にそうだろうか?そうだとすれば、より正確で、より完璧なものしか感動をつくれないことになる。感動とは、簡単に手が届かないものなのだろうか?

 そう思わない。不完全なものにも、人は感動する。

 赤ん坊を見れば分かる。赤ん坊は不完全のカタマリなのに、たくさんの人に感動を与える。はじめて笑った時、はじめてしゃべった時、はじめて立った時。感動せずにはいられない。なぜだろう?赤ん坊は、いつか笑うし、話すし、立って歩き出す。そのことを知っているはずなのに。

 人は不完全でいいと思う。これは、どこにも完全な人なんていないからとか、そういう慰めじゃない。不完全だからこそ、感動をつくることができる。挫折から這い上がり、不可能に挑み、人々を感動させる人は、みんなみんな不完全な人間だ。でも、不完全だから愛することができ、不完全だから共感することができる。不完全という言葉こそ、「人間らしさ」を表すものだと思う。

 だとしたら満足の先に感動があると考えるべきではない。そんな風に考えたら、きっと誰も感動させることはできない。感動は、「人間らしさ」という言葉の先にあるものではないだろうか?赤ん坊に感動するのも、きっと赤ん坊の中に「人間らしさ」が見えるときなのではないか?と思う。

 だから、こんな不完全な文章でも、心に寄り添えたらと思って書いている。