努力は「才能」ではない。努力とは「仕組み」である。
どうも!
今回のテーマは「努力」です。
ちょっと前に努力に関する話題がはてなに上がっているのを読みました。
その時は「なるほど」と思っていたんですが、昨日のお風呂で、ふと努力に関する考えが浮かんだので書きたいと思います。
努力は「才能」ではない
まず私自身の考えを明確にします。私は努力を才能(先天的なもの)だとは思いません。
確かに努力をすることは難しいことです。継続的な努力であればなおさらでしょう。大半のブログが一ヶ月も続かずに、ネット上で死骸のようになっているのを見れば明らかです。
ダイエットの計画も、貯金も勉強も読書も、続けることは困難です。
しかし、努力ができるとされている人たちは、本当に何か特別な才能があるんでしょうか?その才能を持っていないから、努力ができないのでしょうか?
努力できない人には「仕組み」がない
私自身、これまで色々な計画を立ててきて、たくさん失敗してきました。
例えば、入社1年目の新入社員の時には、自己成長のために「1年で本を100冊読もう」と目標を立てました。ご想像の通り、結果はその半分にも満たないものでした。
これは私に努力する才能が無いから、本を読めなかったのでしょうか?
逆のパターンもあります。私は去年、3ヶ月間で10kg痩せると決めて、それを達成しました。私は達成するために、いくつかのルールを設定しました。
- 一日の摂取カロリーを最大1500kcalにする
- 会社近くのジムに週3日以上行く
- 毎朝、体重を測る
見て頂いて分かるように、別に自慢できるようなことはしておりません。ただ自分が達成できるように「仕組み」を作っただけです。逆にいえば、最初の読書が失敗に終わったのは、仕組みが無かったからだと言えます。
努力ができないのは、ほとんどがこのパターンだと思います。
誰だって自宅でテレビをつけながら、手元にスマホを置いて勉強なんて出来ないのです。
どうすれば「仕組み」を作れるか
努力できる人は、自分がどうしたら努力できるのか考えます。
そのために、自分がどういう人間かを分析するのです。
どういう時に怠けてしまうのか、その原因は何か、逆にどんな時に集中できたか、どういう目標が好みなのか、などなど。
努力できる人は「今のままの自分では達成できない」という現実を受け入れて、そこから工夫改善をするのです。
「毎晩、バットを振る」という努力を続けた人が行ったのは、毎晩バットを手に持つことではありません。お風呂や食事の時間、テレビをみたり勉強をする時間だって、しっかりと計算していたはずです。どうしたら、毎晩バットを振れるのか、そのための仕組みを考えたはずだと思います。
この工夫改善による「仕組みづくり」が努力の鍵だと私は考えます。
努力とは後天的な「習慣化へのプロセス」だと私は思うのです。
そうでなければ、努力できた経験と失敗に終わった経験、多くの人が両方を持っているのは、おかしなことだと思いませんか?
ではまた!
努力についてはこの本がオススメです。ライフハッカーの記事でも紹介されていました。