仕事に悩んだら、フリハク。

自由な働き方・生き方を考えるブログ

そして父になる

「われわれの自由とは、今日、自由になるために戦う自由な選択以外のなにものでもない。」ジャン=ポール・サルトル
自由に生きることについて考えるとき、我々はある種の普遍的と言っていい誤解をする。

会社を辞めるときは「食っていけるのか?」と聞かれ、さらに結婚していれば「奥さんいるのに大丈夫か?」と言われる。

彼らにとって、仕事を辞めることは即ち、ご飯を食べられない=死という想像力なのだ。仕事とは生きるために必要なものであり、できれば解放されたい苦難なのである。

さらに結婚して妻がいるということは、独りよりも多くの稼ぎを必要し、より多くの困難に耐えなければならないと想像する。彼らにとって、結婚とは、妻とは、人生の挑戦への「足かせ」に思えるのだろう。

はっきりと断言するがそれらは間違った認識だ。
自由とはそもそも「束縛がない状態」を指すものではない。例えば仕事について考えるとしよう。

仕事をすることに不自由を感じている人間がいるとする。「仕事を辞めたい。辞めて自由になりたい」と日々願っている。では、そんな人間が仕事を辞めて得られるものは何だろうか?

確かに仕事を辞めれば束の間の安息を得られるかもしれない。自由のようなものを感じるかもしれない。ただ、そんな感覚は長くは続かないのだ。すぐに、「将来への不安」や「無意味に過ぎていく毎日への後悔」に心を侵されるだろう。

仕事という束縛から解放されたところで、自由という尊いものは得られないのだ。

自由とは制約や束縛の外にあるものではない。
自由とは制約や束縛の中にこそあるものなのだ。

あらゆる束縛は人間に、知恵を、工夫を、創造力をもたらす。
人間が誠に自由を感じる瞬間とは、知恵を、工夫を、創造力を駆使するときに他ならない。

なぜなら、それらは人間の原始的で根源的な喜びに関わる事柄だからだ。つまり、「できなかったことができるようになる。」ということだ。

知恵や工夫に感じる喜びとは、幼子が初めて立ち上がった時に見せる笑顔と、本質的には全く変わらないのである。

自由とは制約と束縛の中にあるものだ。
僕には妻がいる。その事実は僕を自由にしてくれるのだ。

そして僕は、また新しい自由を手に入れることになる。
今年の年末頃、僕は父になります。

掃除もできないヤツに仕事ができるはずがない

今日の夕飯はお好み焼きらしい。それだけで生きる希望がわく。自宅より。

 

 突然ですがあなたの机の上、片付いてますか?

 片付いているというのは「どこに何があるか、全て把握している状態」のことを指します。当然ですが「この辺りにあるはず」というのはダメで「ここにある」と言えるのが片付いている状態です。

 そして、もしも今、カバン、机の上、部屋の中が片付いていないなら、残念ながらあなたは仕事ができない人です。正確に言うと、「片付いていても仕事ができない人」はいます。しかし逆は成り立ちません。「片付いていないけど仕事ができる人」というのはいないのです。

 「たかが掃除や片付けで何をほざく?ボケ、殺すぞ」と思った方もいるでしょう。それがそもそも間違いです。「掃除程度のこともできないのに、仕事なんてできるはずがない」というのが私の言い分です。これを翻訳すると「掃除もできんような人間は、そもそも人間以下じゃ。貴様こそ、埋めるぞ。ボケ」となります。

 掃除、片付けというのは、時に殺し殺される、そんな関係にまで発展するほど大切なことです。にもかかわらず、これを理解していない輩が実に多いのもまた事実でしょう。だから、私は、自らの時間を使ってこれを世の中へ再教育せしめんと、カタカタをキーボードを叩いているのであります。分かったらはよ片付けんか。

 「テスト勉強を自分ちですると、なんか知らないけど部屋の汚れが気になって掃除しちゃうことあるよね?しかもオールナイトで。」というのは掃除のよくある話で、人間の集中力というのは環境に非常に影響されやすいんですな。つまりどういう環境に自分の身を置いているか、というのがそのまま結果へ結びつく。クズと一緒にいればクズになる。そろそろ片付いたか?

 ちゅーことで、自分をクズで取り囲んでいるヤツは、そいつ自身がクズなんですな。だから、クズになりとうなかったら、はよクズを捨てろってことですわ。掃除ごときもできないのに、「自分、仕事はできますので!」ってアホか。埋められる前に、自分とこのゴミを埋めてこい。

 町田康を読んでたらこんな文章になった。掃除でもして心を落ち着けよう。

感性を疑いたい

同じ日など無いと思う。自宅より

 

久々に「良い文章」を目にした。

www.gizmodo.jp

 

 別にApple Watchを買ったことを褒めたいわけではない。多分、今のApple Watchを積極的に買う理由はほとんどない。でも、筆者はApple Watchを買うことで、ワクワクすること、未来への想像、日常を非日常にする感覚を手にした。

 それらは本当に大切なものだと思う。自分が退屈な日常を過ごしていることに気づいている人は少ない。さらに言えば、自分の感性を疑う人はもっと少ない。みんなどこかで「自分の感性は他人のものよりちょっと上」と思っているのだ。(だから、ほとんどの人のツイートは吐くほど下らないし、閉じるボタンが間に合わないほどつまらないブログが溢れている。でも悲しいかな当人は面白いと思って書いているわけだ。)

 自分に優れた感性が本当にあると思うなら、人と違うことをやって証明するしかない。人とは違う切り口で、行動を起こし、発信するしかない。まぁ、それが簡単ではないことは、ユーチューブを開けばすぐに分かる。有象無象が、同じようなことをやっているのが分かるだろう。自分の感性を疑えなければ、そうなって当然なのだ。

 このように考えると、先にあげた記事の筆者は、自分の感性を疑っていた。自信はないし、多分後悔するけどApple Watchを買ったのだ。意図的な自分への挑戦。「後悔しないように生きると、最後に後悔する」という事実に対して、「あえて後悔する選択」をしてみることで、何かを変えようとしているのかもしれない。たぶん、彼のApple Watchへの後悔は、本当の意味での後悔にはならないだろう。(成功話よりも、失敗談の方が話のネタになる)

 さて、そうするとこれを読むあなたは思ったかもしれない。「じゃあ、お前はApple Watchを買うのか?あえて後悔することで、自分の感性に挑戦するのか?」と。

 それに対する僕の答えはこうだ。

「やっぱ、お金って大事だよね。」

夏のように暑い、春の日であった。