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なぜ村上春樹には解説本が多いのか?〜僕と村上春樹の出会い〜

日常の中に非日常があり、非日常の中の日常を生きる。

僕はそんな小説が好きだ。
 
僕が村上春樹の小説に出会ったのは高校を卒業して、仮面浪人をしていた頃のことだったと思う。

僕と村上春樹の出会い

 暇を持て余していた僕は、インターネットのチャットルームにのめり込んでいた。僕が通っていたチャットルームには、いつも似たようなメンバーが集まっていた。学者先生、プログラマー、女子高生、キャバ嬢。くる日もくる日も、僕はそんな顔も知らない"知り合い"たちと、いつ終わるでもない会話を続けていた。
 そんなチャットルームの中で、異彩を放つ人がいた。ハンドルネームは何だったか?思い出すことができない。その人の発言は端々にユーモアが効いていて、何かを言う度にチャットが盛り上がった。でも、その人はいつも会話の中心ではなかった。自分の話したいこと、言いたいギャグを言うだけの人ではなかった。
 今、思えば、その人はそうすることもできたのだと思う。それでも人気は変わらなかったと思う。もっといえば、会話を仕切って、先導して、自分の思う通りの世界を作ることもできたはずだ。でも、そうしなかった。その人はたぶん賢かったのだ。
 ある日、その人とたまたま二人でチャットをする機会があった。時間は深夜で、他に誰もいなかったからだ。僕は思い切って「どうしたら、あなたのように賢くなれますか?」と聞いた。その人は「本を読んだらいいよ」と答えた。「村上春樹を知ってるかい」その時、僕ははじめて村上春樹に出会った。インターネットはまだ黎明期。顔の知らない"知り合い"に、僕は人生の価値を教わっていた。
 
 認めよう。仮面浪人の僕は、モラトリアムに両足を完全につかまれていた。かろうじて動く手でキーボードを操作し、チャットルームという仮想に逃避を続けていた。実はこの後、"その人"によって、僕は大学を目指すことになり、無事に合格することになるが、それはまた別の機会に話をしよう。
 とにかく僕は村上春樹に出会った。最初に読んだのは、その人に勧められた「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だった。その頃の僕は分厚く、しかも前後編に分かれている小説なんて読んだことがなかった。でもとにかく買って、ページを開いた。世界が変わった。いや、世界は変わっていない。変わったのは、モノの見方(Perspective)だった。僕は村上春樹を読むことで、"村上春樹的な視点"を手に入れたのだった。
 しかし、僕が手に入れた"村上春樹な視点"は不完全なものだった。たった1つの作品を読んだだけでは足りなかったのだ。だから、僕は読んだ。完全な"村上春樹的な視点"を手に入れるために。次に手にとったのは、初期の3部作だ。名前の出てこない小説は初めてだった。後にデレク・ハートフィールドが架空の人物であったことを知った時の衝撃。村上春樹的な視点は、また少し完全なものへ近づいた。僕は次々に読んだ。時間は腐るほどあった。いくつかの短編集を読んだ後で「ねじまき鳥クロニクル」を読む。ねじまき鳥クロニクルは、僕が徹夜をして読んだ人生唯一の本になるだろう。分厚い上中下巻に分かれたページ。それをめくる手を、僕は朝がきても止めることができなかった。僕は僕の失われつつある時間を、失われたものを求める主人公に、完全に重ねていた。
 "村上春樹的な視点"は、僕がダンス・ダンス・ダンスを読み終えた頃に充分なものになった。いや、それ以上のものになった。僕は僕の視点と村上春樹的な視点を上手く使い分けられなくなっていた。村上春樹的な視点は、ガン細胞のように僕の視点の中で増幅し、切り離すことが困難に感じられた。僕はその時、世界でひとりぼっちのような気分になった。自分の人生が「文化的雪かき」のような気さえした。僕は村上春樹を読むのを止めた。
 

なぜ村上春樹には解説本が多いのか?

村上春樹の小説には解説本が多い。なぜだろう?

 僕のように熱心に村上春樹を読んだ人ならば、村上春樹の解説本なんて気持ち悪いと思うに違いない。小説とは、そこに書かれていることが全てであり、それ以上はない。それに村上春樹という作家は、難解な文章を書かない。試しに探したけれど、村上春樹のエッセイを解説している本は一つもなかった。

 にもかかわらず村上春樹の小説に解説が必要になる理由はなんだろう?僕が思うに村上春樹を楽しむ上では、小説家としての村上春樹を理解する必要があるからかもしれない。つまり村上春樹の小説は、村上春樹的な視点を理解した方が楽しめるということだ。確かにこれは初見の人には難しいし、村上春樹の全作品を読む手間を考えたら、解説本を一冊読んだ方がお手軽な気はする。ただ、そんな風に手に入れた視点に、どれだけの価値があるのか。結局は、村上春樹の解説本は売れるからある。ただそれだけのことなのかもしれない。

 

深く知ることの大切さ

 最後にまた僕の話を少しだけ。村上春樹を離れた僕は、また別の視点を手に入れるために他の小説家を探した。別の視点を手に入れることで、村上春樹的な視点と僕の視点を切り離そうと考えた。あまり上手くはいかなかったけれど、町田康や中島らもなど、何人かの稀有な小説家に出会うことができた。僕の小説を読むスタイルは、村上春樹のおかげで確立されていた。ある作家が気に入ったら、その作家の作品は全部読む。その作家について、深く深く知る。その作家の視点を身体に染み込ませるのだ。

 このスタイルはやがて、小説の枠を飛び越えた。例えば、音楽や映画。好きなバンドのCDは全部きいた。好きな映画監督の作品は全部みた。こうすると、単にひとつの作品の価値ではなく、その作品が生まれるまでの歴史や変化を体系的に理解できる。表面の変化ではなく、本質に触れることができる。その本質は"視点"として自分の中に留まり、自分の行動や考えを客観的に見る手助けをしてくれる。

 何より、何かを深く知るというのは良いことだと思う。自己紹介で会社名しか名乗ることができない人生は寂しい。誰かと比べる必要はないと思うけれど、熱く語れるものがある方が、人生は楽しいと思う。それにはやはり、解説本という"お手軽な視点"を得るだけでは不十分だ。自分で潜ってみるしかない。あまり深く潜ると、戻ってこられなくなるから注意が必要だけれど、他人を理解し、視点を手に入れるということは、そのくらいの覚悟が必要なのだ。だから、哲学者は一生をかけて、はるか昔の哲学者の研究をする。プラトンの専門家もいれば、ニーチェの専門家もいる。一人の素晴らしい哲学者を理解するのに、一生を捧げるのだ。

 そのような行為が、あなたには愚かに見えるだろうか?

 僕にはとても美しく尊いもの思える。

 ではまた。

 

ねじまき鳥クロニクル 全3巻 完結セット (新潮文庫)

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